そろそろ起きようか

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「ロミオ&ジュリエット」@東京グローブ座 観劇記録

半年も前ですが観劇記録。

4月に、この世で最も有名な戯曲の1つ「ロミオ&ジュリエット」、リアル10代二人の主演による舞台を見てきました。

 

まずは、舞台セットから。

東京グローブ座は、外観内装ともにかつて英国ロンドンにあった劇場・グローブ座(今もテムズ河畔に再建)を模して作られた、円形の客席が特徴的な劇場です。今回のステージは額縁舞台位置より前方が四角く客席に張り出していて、客席前方の数列がその部分を包み込むように配置されています。側面の座席は張り出した舞台を横から見るかたちです。この舞台のかたちは古にシェイクスピアの芝居が幾度も演じられたロンドンのグローブ座と同様で、小規模ながらも模した配置に胸が高鳴ります。

舞台中央には、高さ20cm余縦横2.5m四方くらいの台が置かれ固定されています。舞台奥には高さ2.5mほどの可動式の壁が2つ。どれも皆、重々しい鉛色に塗られています。
台は、人物たちがその上に乗れば「部屋」となり空間を切り取る役割。壁はさらに有能で、役者さんたち(両家の使用人や家人を代わる代わる演じる方々)の手でするすると動かされ、暗転の代わりに壁が交錯して場面転換を成したり、舞踏会の隙に「巡礼」が初々しい口づけを贈りあうのをそっと隠す屋敷の壁になり、この物語の代表的シーン、互いの気持ちを知り愛の言葉を交わす二人を高さで隔てるバルコニーにもなり、絶望への毒を売る薬屋の陰鬱な扉になり、そして最後の場面では壁の胴が開いて無数の蝋燭が揺れる霊廟の壁にもなります。
セットらしいセットはそれだけで、あとは運ばれてくる椅子くらい。極めてシンプルな空間でした。

 

私自身、「ロミオ&ジュリエット」は個人的に思い入れ深い作品ではあるものの、演劇舞台として見る機会は少なく、遡れば最も近くはシアターオーブでのフランス版ミュージカル公演でした。(音楽が素敵でした。世界の王!)

 

さて、今回の舞台本編。

演出はとても王道。舞台の配置同様にシェイクスピアの戯曲とその世界観を再現すべく大切に丁寧に織り上げられていると感じました。

シェイクスピア特有の言い回しに満ちた松岡和子氏訳に忠実な台詞、その言葉の量は膨大ですが、ベテラン役者たちの巧みさによって物語はテンポの速い展開で進みます。もともとが場面転換の多い戯曲ですが、上述のセットやこの時期には珍しく客席通路を使うことで場面がくるくると移り、若い世代の観客にも古典特有の重さやまだるっこしさ、敷居の高さは感じさせなかったのではと思います。

そして美しい衣装。キャピュレット家を始め登場人物たちの衣装は、ヴェローナの裕福な名家らしい装いでした。特に素敵だったのはキャピュレット夫人の衣装で、色を多く使っていても華美にならず落ち着いて品よく目を惹かれました。

衣装ではないですが特徴的なマーキューシオの化粧。その頃のフィレンツェの伊達男よろしく白塗りに目と唇を強調しています。

台詞、展開、衣装も含めて、戯曲のまま世界観そのままを大切にきっちりと精密に組み上げられた印象でした。


その中で、フィレンツェ派の古い絵画に嵌め込まれた摘みたての果実のような輝きを放つのが、主演の2人です。
ロミオの衣装は白いブラウスに黒の細身のパンツ。時に青いジャケット。腰に剣こそ下げていますが(それすらない場面も多い)、他の人物の衣装に比べ名家の息子にしてはずいぶんとシンプルで非常に現代風の装いです。シンプルさが、演じる道枝くんの華奢さとスタイルの良さを際だたせています。

ジュリエットは、舞踏会での仮装の鎧、寝間着、最後には死装束となるウェディングドレスとしばしば衣装を変えますが、普段の服は白いドレス。裾はAラインで華やかに広がっているものの装飾は少なく丈が短めで動けば踝が見えるほど。映画「ロミオとジュリエット」でのオリビア・ハッセーのような髪飾りもなく、茅島さんのトレードマークである艶やかなストレートロングの黒髪のまま。ロングスカート流行りの今なら、服も髪型もそのまま今の街を歩けそうです。

 

二人の動きもそう。古の時代の堅苦しさはなく伸び伸びとして感情の表し方も直線的です。たとえば初めての触れあいとなる舞踏会、ほぼ物怖じしない(むしろジュリエットの方が積極的かなと思うくらいw)で互いの距離を詰めていきます。

名シーンであるバルコニーの場面も、好きとなったらそれしか見えない10代の真っ直ぐさ、「嬉しい、愛しい」という感情が、身体全体、台詞すべてからとめどなく溢れ出すよう。古いつつましさなどどこへと言わんばかりに全身で表されるその想いは潔く。ジュリエットの想いを知ったロミオはそれまでの絶望などきれいさっぱり忘れ、子どものように顔をくしゃくしゃにしてガッツポーズ?、まさに浮かれまわります。ジュリエットも然りで、翌朝にはしゃいで手がつけられないほどで、ばあやを困らせます。二人の初々しくあどけなく、自分の気持ちを隠せない可愛らしさには、観客も頬を緩めずにはいられません。

 

そんな愛しい喜びも束の間、物語は悲劇へと転がっていきます。

主演の二人の真っ直ぐな演技は、悲劇への展開のなかでも続きます。ティボルトを殺めてしまい教会に逃げ込むロミオは、奥の部屋に隠れるよう勧める司祭の言うことも聴かず床に寝っ転がります。強く勧められても大の字になり寝返りを打つ始末。苦悩すると言うより不貞腐れているような態度です。

ジュリエットも、悲しみと動揺にスカートの裾を翻して足を踏み鳴らし、世間知らずの深窓の令嬢と言うより、今にも自分の足で駆け出してしまいそう。古典そのものの舞台のなかで、若い二人の現代的な表情や動作は異を放ちます。その印象は緻密な演出の中で「異」ではありますが決してネガティブではなくむしろ瑞々しく、こんなに奔放で輝ける若さを持ちながら短絡的に死に走ってしまう二人の未熟さと愚かさを浮き上がらせます。

もし同じく伝統的な世界観に忠実に重々しく二人を演じさせたなら、二人が今持っているそして2度と同じ時はない輝きを隠し、ただ美しいだけの二人になっていたかもしれません。

 

道枝くん茅島さんの2人、白い衣装に色白の風貌は揃って自ら発光しているかように眩しかったです。(特にカーテンコールで出演者全員で踊る婚礼の祝いのダンスのときの美しさといったら!!)


茅島さんの声が特に素晴らしいと感じました。若いタレントさんにありがちな甘さや舌足らず感がなく、少年のように凛々しくよく通る声。発声も発音も舞台経験が浅いと思えないほど安定していて素材の良さを強く感じさせられました。恋を知る乙女はさらさらと美しい髪とスカートの裾を翻して愛くるしいのですが、後朝の別れの時には眉を微かにしかめてはっとさせられるほどの憂いをみせ、表情のメリハリも美しかったです。
道枝くんは、片想いに悩み、運命の女性を見つけ、恋に浮かれ、怒り、嘆き、そして絶望する。ころころと気持ちと表情が入れ替わり、短絡的に生き急ぐロミオを、表現力豊かに伸び伸びと演じていました。初主演ゆえの気負いは感じるものの物怖じを見せないのは、Jr.のステージではあれこれまで踏んだ舞台の数は伊達ではないという度胸の現れでしょうか。早口で膨大な台詞が時につんのめってしまうのもある意味ロミオらしいと言うか。難点と言えば癖なのか呼吸法の問題なのか、台詞の合間に吸い上げるようなブレス音が常に挟まってしまうところで、気になるとずっと耳がその音を捉えてしまうので改善していけるといいなと感じました。

 

若く奔放で直進しかできない2人を囲むのが、頼もしい役者陣の皆さんです。平田敦子さん演じる「おしゃべりが止まらないばあや」が素晴らしく、これからシェイクスピアの戯曲を読むたびに彼女の声で再生されてしまいそうなほど。

ベンヴォーリオとマーキューシオはロミオの友人と言うにしてはずいぶんと年上で、友人というよりな兄のようで正直違和感も(これまで見たロミジュリでは同世代)。これもリアル十代を際立たせるのに一役買っているとも言えるのかもしれませんがもう少し若くても良かったのでは?(苦笑)

もうひとつ、驚いたのがキャピュレット家の使用人ピーター役の人。道化役のような風貌で低身長の役なので、ずっと膝立ち。そのまま舞台を走り回り、台の上にも腕を器用に使って上がっていました。カーテンコールでこそすっくと立って踊っていましたが、膝の関節と大腿部の筋肉への負荷が心配になりましたが…俳優さんはすごいなぁ。

 

コロナ禍の特殊な緊張感の中、頼もしい俳優陣に囲まれしっかりと緻密な古典の舞台を演じきれたことはお二人にとって大きな経験、財産になるのでしょうね。

そして観客としてもこの今にしか見られない二人の輝きを、素晴らしい舞台で観られたことは本当に幸運です。

公演お疲れさまでした💗

 

 

 

 

 

 

 

以下は余談。

私が生まれて初めて、学芸会ではなく「演劇」として舞台に立ったのが、この「ロミオ&ジュリエット」でした。もちろんロミオでもジュリエットでもなく、10代でまさかのキャピュレット役w。使ったのは小田島訳本だったので微妙に違うところはあるものの、三つ子の魂なんとやら、プロンプターもやっていたので今も当時の台詞は全てほぼで暗記しています。舞台の楽しさ、舞台に立つ喜びと難しさを教えてくれたこの作品を、このように戯曲へのリスペクトと鮮度が両立された形で観劇できたこと、とても嬉しかったなぁ。